論文審査の結果の要旨

   レクリェーションとしてのツリークライミングは、アメリカのピーター・ジェンキンス氏によって1983年に開発された 
 ロープによる木登り法であり、安全に組織化された野外活動のひとつとして世界的に広まってきた。日本では、本論
 文の著者であるジョン・ロス・ギャスライト氏がツリークライミングジャパン(TCJ)を2000年4月に設立し、老若男女を
 問わず子どもから大人まで、そして健常者から身体障害者までの幅広い層を対象に、2007年までの間に日本全国
 で総計45,000人以上にツリークライミングを指導してきた。その参加者の大多数から、ツリークライミングは面白くて
 楽しいだけではなく、参加者の自信を増し、自尊心を高めて、感情と身体に良い効果をもたらし、さらに森を助けた 
 いという気持ちを引き起こし、環境意識を向上させるといった効用のあることが数多く寄せられた。
  
  そこで、ジョン・ロス・ギャスライト氏は、ツリークライミング参加者から出されるこれらの効用の科学的根拠を調  
 べ、その結果を基にツリークライミング参加者のみならず、周辺社会と環境にも大きな便益を提供できる科学的な 
 ツリークライミング・プログラムを創ることを目的として、本学の博士後期課程社会人選抜に平成15年に入学し、本 
 論文をまとめるに至った。本論文は次の3つの研究で構成されている。

  1.ツリークライミングとタワークライミングの心理的・生理的効果の比較

  ツリークライミングが、自然環境や森林環境それ自体の持つ回復効果を上回るような、より積極的な健康と社会 
 的効用をもたらすかどうかという疑問を明らかにするために、名古屋大学教員と学生から11名の被験者を集め、同
 じ森林内に立つコンクリートタワーとコナラの木を同じツリークライミング手法で同じ高さ(9 m)まで登る比較実験を 
 行った。
  POMS(Profile of Mood States)テスト等による心理的結果では、ツリークライミングは活力のようなプラスの気分 
 を高めるのに対して、タワークライミングは緊張や疲れといったマイナスの気分が増加していた。自律神経の活動評
 価による生理的結果では、いずれも登ることにより交感神経の活動の高まりが見られたが、ツリークライミング後だ
 けに緊張状態を緩和する副交感神経の活動の有意な上昇が観察された。これらの結果より、ツリークライミングは
 人工的なタワーに登るよりもはるかに大きな心理的かつ生理的効果を有していると考察された。さらに、これらの結
 果は、ツリークライミングによって生きた木に直接触れることが、森林環境そのものの回復効果に加えて、心理的・
 生理的効果を高めることを示唆している。

 
  2.日本の里山におけるツリークライミング・プログラムの社会的効用

  ツリークライミングを楽しむためのプログラムが、参加者への効果と同様に積極的な社会的効用をもたらすかどう
 かという疑問を明らかにするために、愛知県瀬戸市の定光寺野外活動センターでTCJが催した4年間のプログラム
 参加者にアンケート調査を実施した。
 成人384人の有効回答データを分析した結果、まず参加者への効果として、面白くて楽しいという認識は性別によっ
 て顕著に異なることが明らかになった。例えば、女性はツリークライミングそのものを楽しみ、男性のように早く一番
 上まで行きたいといった競争的目標は見られなかった。また、女性はツリークライミングの装備や技術の安全性とそ
 れらの使用法についてより詳しい説明を求めているのに対して、男性はスムーズに速く登るテクニックを知りたがっ
 た。さらに男性からはツリークライミング用ハーネスの装着具合について全く不満が出ていないのに対して、女性に
 とってはそれが最も大きな関心事のひとつであった。
 
  アンケートの分析結果から、ツリークライミングによってより大きな楽しみと達成感を得た参加者ほど、木への親し
 みがより深まることが明らかになった。この結果は、参加者達がより多くの木や森に関する知識を求めるとともに、
 より長い時間のプログラムの中でもっとリラックスして癒されたいと求めていることを示唆している。
 ツリークライミングの社会的効用として、ツリークライミングのプログラムは参加者達が楽しむために設計されている
 が、彼らが定光寺野外活動センターで他の野外活動を始めてみようとするきっかけになっているとともに、参加者達
 の環境精神と環境意識を高めていることが明らかになった。また、年間を通したツリークライミングの活動により、冬
 季間閉鎖をしていた定光寺野外活動センターは1年中施設を開くことができるようになった。

  3.セラピープログラムによる人間と木の癒し効果

  先の2つの研究の成果を踏まえて、プログラム参加者への効果、社会的効用と環境意識を最大限にするような将
 来のツリークライミング活動を設計するために、ツリークライミングを楽しむだけの現行のプログラム(TC)と参加者
 達の癒しを高め、環境意識と社会的効用を強めるように、特別にデザインされたセラピープラグラム(TAT)の比較 
 実験を行った。このような実験には、もともと木や森が好きな人や野外活動を好む人が被験者に集まるというバイア
 スの問題が避けられない。そこで、このバイアスを除去するために、ある企業が社内の福利厚生活動として行って 
 いる全社員参加のレクリェーション行事の中でこの比較実験を行った。この実験には209人の成人男女が参加し、 
 彼らをプログラム(TC・TAT)、性別(男性・女性)、樹種(ヒノキ・コナラ)の3つの要因の組み合わせによって8つの実
 験グループに分けた。

  プログラム前後に行ったPOMS等のアンケート調査データを解析した結果、TATプログラムに参加後の被験者は、
 木への親しみがはるかに増し、木に対する癒しと美的価値に関する新たな認識を深めた。また、被験者達は、健 
 康、福利、回復の観点からTATプログラムを通してよりよく楽しみ、リラックスしていることが明らかになった。すなわ
 ち、TATプログラムは性別にかかわらず、緊張、落ち込み、怒りといったマイナスの気分が少なく、プラスの気分であ
 る活力を有意に高めている。

  さらに、TATプログラムはTCプラグラムに比べて、性別にかかわらず環境意識をより高めることが明らかになっ 
 た。 特に、「木が好き」はプログラムのデザインを考える上で重要な要因である。もともと木が好きな被験者は、い
 ずれのプログラムでも木に対してより良い印象を深めるのと同様に、他の野外活動を始めたり、木や森を助けたり
 したいという思いをより強くしている。しかしながら、もともと木に興味がない被験者でもTATプログラムを通して木が
 好きになるのみならず、環境への積極的な気持ちを強めていることが確かめられた。
 三元分散分析の結果、3つの要因は多くのアンケート項目に有意な影響を与えており、特に、プログラムの違いは 
 ほとんど全てのアンケート項目に対して最も有意な影響を与えていることが明らかになった。
 これらのことより、ツリークライミング参加者が楽しめるプログラムを基礎として、これに癒しと環境教育の要素を加
 え、プログラムに性別と樹種による違いを考慮することで、参加者の身体的に、精神的に、感情的にプラスの効用 
 をもたらすとともに、社会的効用と同様に木や森の回復を助けたいという環境意識を高めるようなツリークライミング
 活動の方向性が示唆された。
 これら3つの研究をまとめて、ツリークライミングのプログラムは、参加者の健康と福利効果を持つとともに、参加者
 の環境意識を高めて、野外活動への参加を促進する社会的効用も有していることが明らかになった。また、ツリー 
 
  クライミング活動は、野外体験やプログラムへの参加の動機づけとなる野外活動のパイオニアとしての役割を担 
 っていると考えられる。さらに、癒しと環境教育の要素を取り入れたTATプログラムにより、ツリークライミングを楽し
 むだけの現行プログラムに比較して、参加者の健康と福利効果を高めるとともに、社会的効用と環境意識を深める
 ことができる。

  以上のように本論文は、ツリークライミングの社会的効用と参加者の環境意識の向上の究明に取り組んだユニー
 クな論文であり、ツリークライミングに関する世界初の研究として国内外で高く評価されている。また、この本論文 
 は、健康増進、環境意識と社会的効用の向上を目標として、世界的なツリークライミング活動のプログラムの改善と
 普及に役立つのみならず、里山あるいは緑地で行われる他の野外活動のためのケースモデルとして幅広く貢献す
 ることが期待される。よって、本審査委員会は、本論文の独自性、独創性、ならびに実用性を高く評価し、本論文が
 博士(農学)の学位を授与するに十分価値あるものと認定した。

  この論文の著作権は著者ジョンギャスライトにある。引用にあたっては必ず下記を入れてください
  (JOHN GATHRIGHT 2007 名古屋大学/TREECLIMBINGRJAP


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